合目的性と非合目的性

『合理性と遊戯性』を書いていて思ったのだけれども、本当に読んでいただきたいのは『サッカーの基礎理論』で、その他の論考はこのブログの本旨からいうと枝葉みたいなものなんだけれど、サッカー人のものの見方というか特殊な見え方みたいなものに気づいたので記録しておく。人の世のよすがみたいなものをことばで捉え文字に留めようと努めた結果、数々の日本語作品が金字塔として世界の文学史に爪痕を残してきたが、このブログでサッカーを愛する日本の仲間の日常生活史に指紋くらいは残せたらと思い書いている。

 

サッカー人のものの見え方として合目的性とでも名付けられる見え方があることに気づいた。つまり目的=ゴールに迫ろうとする意志といか意図をもってなされたプレイかどうか見ていると自然に分かる。トラップであれドリブルであれゴールへの接近を企図してなされているか、方向は前後左右どちらであっても構わないが、顔を上げた時の目線だったり視線を配るタイミングだったり向きだったりで、頭の中で思い描いている光景が透けて見えるのだ。特に合目的性をもって行われたプレイかそれをあえて隠してあるいは一切考慮することなく行われたものかは一目瞭然なのだ。

あるプレイヤーが何を考えながらプレイしているかは外形からばれている。(その日の昼飯のメニューの゙考えは見通せないけれど)顔の向きや体を運ぼうとする仕方で内面の意思は表に現れ出て来るもので、サッカー人に対してはいい意味でも悪い意味でも伝わってしまうのだ。あえて視線を伏せて、タイミングを外して急所にパスを通し、そこに真の狙いがあったことを後から気づかされるとき、サッカーを見る醍醐味がそこにあることを思い出させられる。針の穴を通すようなパスもすごいのだけれど、発想の及ばないようなタイミングやスペースの使い方にはいつも興奮させられる。

ルックアップした瞬間にただ慌てふためいているのか、蓋然性の高い起きるべきシーンを予測したうえで局面を見つめているのか、バックパス一つにしても次のプレイを暗示してタテパスのためのスペースを確保する狙いがあるのか、ただただ逃げているのか見ればわかる。合目的性に従ってプレイ選択することで、チームに共通認識が芽生えプレイに連動性が生まれることもある。

合目的性をもったプレイか否かはサッカー人からすると敏感に察せられるものなのだ。合理性と遊戯性の観点とは別に、ゴールを頭の中できちんと描けているかどうかは、『サッカーの基礎理論』の中でも「特に守備の場面での背後にある空間の延長にあるゴールを守ることを忘却して正しいポジションは取れない」と言及しておいたが、攻撃の場面でも非合目的性の゙プレイをすることで生じる不調和を覚えておくべきだ。たとえゴール方向へのプレイを諦めた場合でも、挑戦しようとしていたかどうか分かるものだ。

合理性と遊戯性

無駄を省くのか、‘’ちゃぶる‘’のか。シュートまでの過程をなるべく少なくするのか、逆に遊ぶのか。シンプルさと読まれにくさ。タテとヨコのダイナミズムの渦の中で、熱く鋭さを追求するのか、冷静に技術を究めるのか。ディフェンスラインのウラを狙うか、目の前の相手の裏をかくか。スペースを攻略するのか、時間を支配するか。グラウンドの長い(広い)スペースに機敏に人員を配置できるか、ボールサイドに人を集めて数的優位を保ちながらゲームの流れを作り出すか。

失点のリスク管理の面では、ターノヴァーの頻度が高いのがタテ指向で、ターノヴァーが起きた時に危険度が高いのがヨコ指向。(横パスをカットされることは、二人のプレイヤーが同時にドリブルで抜かれるのと同じ。)速さと華麗さの競演。

昔、コパ・リベルタドーレスのある試合中継を見ていて、ゆったりとタテヨコにボールを運ぶサッカーに不思議な感覚を抱いたのを覚えている。前方のゴールを目指す競技をしているというより、ボール回しを楽しんでいるようだった。慌てて前進するよりかは、自分たちのリズム(ペース)を大切にしながらむしろゆったりとプレイする。ただ、チャンスのときのテンポアップ、トップスピードでゴール前に殺到する迫力はすさまじかった。どこかにタテへの推進力を上げるスイッチが潜んでいる。この急激な変化があるから相手は警戒を怠れないし、無理にボールを奪いに行くこともできないのだ。ヨコ指向のサッカーに触れた最初の記憶として、今でも何となく頭に残っている。(今と昔ではだいぶルールも違うけど。)

今はタテ指向が強いサッカーが主流になっていて、試合の強度も上がって豊富な運動量(多くの上下動)とスピードが必要とされる。現在のサッカーが進む方向としては、攻撃の手順を合理化して、少ない手数(ドリブル・パス)で直線的にゴールへ迫るのは自然なのだろう。守備の人数を確保しながら、限られた人数で攻め切ってしまうことは理想的ではある。守備の陣形をなるべく崩さないまま得点機を生み出そうとすれば、攻撃の何らかの合理化が不可欠となる。相手の守備ブロックが整う前にカウンターを仕掛けるとか、突発的に最終ラインで1対1・2対2の局面を生み出して相手のカバーが間に合う前にフィニッシュする等、余計な事はせずにチャンスを狙い一気に攻め切る。最終ラインがオープンになる(プレイスペースのある)状況を突き、フィニッシュまでの速度を徹底的に追求する。

 

将棋の棋風で例えるなら、

タテ指向の極致は‘’さばきのアーティスト‘’,ヨコ指向は‘’千駄ヶ谷の受け師‘’。

 

最後に、

ボールをパス・ドリブルでタテに運んだ(バックパスはマイナスにカウント)距離(*メートル)を縦軸に、ボールポゼッションしている時間(*秒数)を横軸にしてそれぞれ積算してグラフにすると、アマチュアでも自分たちのチームがタテ・ヨコ指向どちらの傾向にあるか視覚化できるよ。またはその傾向が試合ごとにどう変化するかも比較できる。これは時間帯ごとに区分けすることもできるけど、かなり凝り性な仕事になる。

 

 

 

パワープレイ便り

昔、西ドイツがゲームの終盤に、大型のプレイヤーを前線で駆使しながらロングボールを配給し、ゴール前での空中戦に持ち込む。狭いエリアでの激しい肉弾戦は数々の逆転劇を生み、その諦めの悪さをゲルマン魂と称賛されていた。細かい規則性によってというよりは、タテの推進力を追求してゴールへ気迫で襲い掛かる。トップの高さを活かして、ゴール前で混戦を生み出し、ボールを全身でゴールへとねじ込む。

また北朝鮮の伝統的スタイルもパワープレイといえる。前を向いてボールを持てるときは、全ポジションのプレイヤーが迷わず先頭のフォワードにボールを当て、この鉄則がシンプルで一貫しているので、チーム全体がそれぞれやるべきことを理解できる。トップへのボールが入るタイミングも全体で共有でき、味方がトップをフォローしやすくなる。やることがバレバレだからディフェンダーは対処し易いが、早いポジティヴ・トランジッション(ボール奪取からの攻撃への転換)をすることで対応をより難しくすることができる。さらにやるべきことが決まっているのだから、それに適した人材をチームに予め招集できるのも利点なんだろう。

パワープレイが効果を発揮するのは何といってもゴール前に押し込んだときなんだ。たいてい大型のフォワードを前線に配置するので、広大なウラのスペースを鋭く突くというよりは、ディフェンスラインを深く押し込んで、窮屈な状態での空中戦を相手に強いる方が効果的だ。ディフェンダーからすると、ヘディングの競り合いは広いグラウンドの中ほどの方が有利で、ゴールに近づくほど不利になる。これは線上で勝負するか、点でするかの差で、助走を使えてジャンプするかスタンディングかの違いにもつながる。ボールをコントロールしたいフォワードと自分の前方へと跳ね返したいディフェンダーとの戦いのとき、線上で競うか点でするかは雲泥の差となり、駆け引きで触らないという選択肢もあるのが線上で戦う場合だ。

パワープレイを仕掛けてくる相手に対しては、できるだけ前線からプレスをかけ続け、オフサイドラインを高く保つようにしなければならない。長めの線上での競り合いであれば、ヘディングの高い打点にあまり意味がなくなるので、身長差はかなり相殺される。後はボールの落下地点でのポジション争いとなるが、単に押し合いつかみ合いであれば体格の大きい方が有利かもしれないが、前後の揺さぶりをかけながら一瞬だけ前に飛び出したり、またはトラップのタイミングを狙って体当たりもできる。さらに予め味方がパスコースを塞いだうえで、トラップした相手を挟み撃ちすることもできる。結局最もまずいのは、ヘディングの高さ勝負で負けてしまうとピンチを招いてしまうような状況を作ってしまうことなんだ。

少し先回りして言及してまったが、パワープレイのロングパスに対処する最も理想的な方法は点でも線でもなく面で守備をすること。一度ロングボールが放たれたなら、相手のトップの前に立ちはだかりパスを阻止しようとする。それがだめならトラップのタイミングにボールコントロールを妨害しながら体をぶつける。ボール奪取はできなくとも、絶対に前に向かせないで味方のプレスバックを待つ。ロングパスの的は明確なので、センターバックボランチで逸早くサンドできるように準備しておく。

ディフェンスするうえで最も大切なことは、前線からのプレスによってできる限り相手の攻撃の機会を減らすこと。ロングパスを蹴られたとしても線や面で対処して、なるべく早くボールを回収すること。トップの落とし(バックパス)が成功したときはディフェンスライン下げるのでなく上げる。できればバックパスでボールが移動した距離と同じくらいラインを上げるのがベスト。これはバックパスの次にプレイする相手のプレイヤーが前向きなのが見えるので、ウラのスペースを使われる恐怖で後退りしてしまうのだけど、オフサイドラインが下がれば中盤はその分間延びしボールホルダーへのプレスがかかりにくくなってしまう。だから点での高さ勝負を避けるためには、勇気をもって少しでもラインを上げなければならない。この時落としたトップをオフサイドゾーンの内側へ置き去りにしたいので、素早くラインコントロールするべきだね。

高さでもスピードでも勝負できないのであれば、相手のパワープレイを防ぐことはできない。点での勝負を避けることを前提にするなら、オフサイドラインは上げてスピード勝負を受けて立つことになる。パワープレイはターノーヴァーが起こりやすく決して効率の良い戦術ではない。なぜなら前方へとボールにアプローチできるディフェンダーに対し、背後から来るボールを処理して逆のゴール方向を目指すフォワードが競り合いで勝たなければ攻撃が成立しにくいのだから。だけどゴールへと近づくための確実な手段であり、カウンター攻撃の危険が極めて低い戦術でもある。これに対処するとき高さ勝負で負けなければそれはそれで済むのだけど、そうでないときの次善策として面で守備する準備をするべきなんだ。

それでも攻撃側はパワープレイの途中にたまにはウラを狙ってみたり、パスを受けようと落ちてきてセンターバックをつり出そうとしたりする。だからサッカーは複雑なんだ。

教科書的ボール奪取

ゴール方向へとドリブルで進むオフェンスプレイヤーを追い駆けてボールを奪取する、プレイの教科書的な解説をする。

まず並走できるスピードと位置までドリブラーに追い付かなければならないが、ドリブルと素走りでは後者の方が一般的には有利なので、なるべく早く横並びしてインサイドのポジションを取る。並走する状態になった瞬間、素早くショルダーチャージないし腰をぶつけて相手のバランスを崩しにかかる。この時できるだけ低く、下から上へ向かって強く当たるようにする。互いの圧力が同程度であれば、ボールをコントロールしようとする分だけ歩幅が不自然となり、ドリブラーの方がバランスを取り戻し姿勢を立て直すのが遅くなる。

拳一つ分でもドリブラーより前に出られれば間髪を入れず、次は肘を張って相手の肩の前に自分の肩をねじ込むようにして体を寄せる。肩と背中が相手の肩や胸と密着した状態で体重を相手の体に預けるようにあるいは勢いよく相手の上体を肩で突き飛ばすように、上半身をひねり当たっている方の肩を後ろに引き、逆の肩は前に押し出す。この接触によって相手の体は後方へ押し戻され、逆に自分の体は前方へ押し出される。肩でなく腰を押し当てても同様だ。

この時ボールと相手の間に割り込んだ位置を確保しつつ、背中や尻で相手の前進を制すれば、既にボールホルダーは相手から自分へと入れ替わっている。一回目のチャージは体勢を崩すために真横から、二回目のチャージは位置を入れ替えるため前から後ろへ体を当てる。どちらも重心を低くして下から上に力を伝えるようにするのがコツで、ボールはあまり気にし過ぎず流れの中で触ったり触らなかったりすればいい。

高校サッカーとフィジカル

ここでは何かの論争に結着をつけようということではなく、論点整理のようなもの。簡単に言えば、高校サッカーにはどの程度のフィジカルトレーニングが必要か、ということ。実際には個人差が大きいことなので、それぞれのプレイヤーが判断することなので、確定的に言い表すことはできない。体格や戦術に合わせて、必要な筋肉や持久力を身に付けるというのが適切だろう。

よくテクニックの○○高校対フィジカルの××高校のような描かれ方をするが、テレビ的演出であるならばかまわないと思うが、あたかも二項対立であると誤解を与えるならば間違いである。テクニックとフィジカルは両立するし、むしろ相乗効果を発揮することもある。

練習に関しても、テクニックを向上させるだけのメニューといえばリフティングくらいで、これも工夫をすれば筋力アップにつながる。フィジカルトレーニングにしてもウェイトリフティングやダッシュやランニングの陸上競技のトレイニングメニューでなくとも、ゲームの実戦においての方がより効率的に必要な体力の向上が期待できる。

ただ昔からテクニックもないプレイヤーに吐くほど走らせて、つまらないフィジカルトレーニングを繰り返させるということが行われてきた。今は科学的な視点も取り込みながら効果的なトレーニングがされているようだが、ではサッカーに必要十分な時間や量はどのくらいなのだろう。チームによって異なるのは当然だが、それは部の伝統によってか、目指すべき戦術によってか、何によって変わるのだろうか。

ここで指摘しておきたいのは、例えばテクニックに関しては、これだけ練習すればもう十分だということはないだろう。サッカーという球技の特性上、ボールを扱うテクニックや1対1に勝つ術を磨くことに終わりはないだろう。プレイを続ける限りその精確さや上手さは、いつまでも必要十分ということにはならない。(昔はドリブル、今はフリーキックなど、磨くところは変化するかもしれないが。)現実にゲームではそれが不十分でも、今ある能力で戦うしかないのだが、ボールを思い通りに蹴る喜びは失われることはないはずだ。

それに対してフィジカルの方はどうだろうか。100mを10秒で、マラソンを2時間ちょっとで走れれば素晴らしいことだが、そこを目標にするべきだろうか。100キロのバーベルを上げることが、サッカーにとってどれほどの意味があるのか。できないよりできた方が良いが、その労力を別のもっと有意義なものに振り分けられないか。特に高校生活は有限なのだから。

このイメージが当たっているかよくわからないが、フィジカルに強いこだわりを持って取り組むチームはプロ的指向で、反対にテクニックは成長重視指向なのだと思う。プロの世界では当然、フィジカルトレーニングにも妥協は許されないだろう。やるときは、体と相談しながらではあろうが、究極の肉体を手に入れるつもりでトレーニングに取り組まねばならないだろう。飽くなき追求はテクニックばかりでなく、フィジカルにも及ぶはずだ。

だから前者を追求するチームはプロ的指向と言える。ただしここではプロになることを目指しているということではなく、そのやり方を真似しようとしているという意味だ。他方後者は、サッカーの楽しさに焦点を当て、できないことをできることに変えることで成功体験を積み重ねさせ、自己実現の価値を感得させる。チームの中で、個人の日々の成長を重視しているはずなので、成長重視指向と言えるのではないか。

もちろん両者が目指すべきはチームの勝利であり、どちらが正しい姿勢だとかは言うつもりはない。しかし、これらの指向を選ぶのはおそらく指導者なので、チーム作りの指針を決めるときに一考の時があってもよいかもしれない。ほとんどの高校生はプロになるわけではないので、だからこそプロ指向なのか、それならば成長重視指向なのか。

それでも十代の三年間、あらゆるエネルギーをサッカーに注ぎ込めるなら、それこそが彼らの幸せだと信じる。

年のはじめに

分ると変わる

 

わからないならかわらない

わからないからかえられない

わかっていてもかえられない

わかっているならかえてみる

わかるからこそかえられる

 

(せっかく人は老いるのだから、)

気づきあかるい明日を築こう!

絶対領域以上犯罪領域未満の際の際⑤神の手

かの天才サッカー選手、マラドーナの‘’神の手‘’の話である。

’86年W杯メキシコ準決勝での出来事である。前半はイングランドの激しいマークに苦労して、思うようなプレイをさせてもらえなかったが、それでも彼はいくらか天才の片鱗は見せていた。後半に入って間もなくそれは起こった。彼が中央にドリブルで仕掛け、右サイドにパスを出した。味方がトラップミスをして、そのルーズボールイングランド選手は蹴り上げた。ボールはキーパーの正面へとふわりと飛んで行った。彼は勢いそのままにゴール方向へ走り込んで行った。決して背の高くない彼と、キーパーとのペナルティーエリア内の空中で競り合いとなっていた。彼の方が一瞬早くジャンプしたが、キーパーとの高さ争いでは分が悪いはずだった。しかしキーパーが触るより先に、彼が伸ばした左の手がボールを弾いた。浮き上がったボールはキーパーの頭の上を越え、ゴールへと吸い込まれていった。イングランド選手の猛抗議にもかかわらず、判定はゴールと認められた。その後彼がやってのけたのが、歴史に残る5人抜きのドリブルからのゴールだった。

俗にマリーシアと呼べるようなハンドによる得点と、他人にはまねできない華麗な超人技によるものとが、一人の選手によって実演された不思議な試合となった。結果は2-1でアルゼンチンの勝利に終わったが、スキャンダラスな神の手と空前絶後の神業が奇妙に同居していた。

当時の子供時分の私的感覚では、ハンドという反則はサッカーをサッカーたらしめる最も核心的ルールであり、それを意図的に侵す行為に強い違和感を抱いた。それもスパースターが、誰でも知っている原初的タブーを破ることに後ろめたさを感じた。

彼はその試合でパンドラの箱を開いたのかもしれない。勝利のためなら手段を選ばない。そういうサッカー選手が世界には存在しうる。選手生命どころか人生そのものを懸けてサッカーをする、そういう彼の人間性が垣間見えたかのようで、私のような凡人からするとどこか腑に落ちなかった。凡人の日常と天才の非日常の間に横たわる隔たりがあまりにも大きく感じたのだと思う。

ただ年を重ねるとともに見えてきた諸事情として、南米等一部の地域の選手たちがおかれた様々なサッカー環境を知るところとなった。彼らは文字通り命懸けでサッカーをしていたのだ。その後不幸にも、プレイが一因となって殺人事件も実際に起った。本人が望むと望まないとにかかわらず、サッカーを職業とする以上、人生の一部や日常生活を担保にしてでも立ち向かわなければならない試合(戦い)が存在しうるのだ。それが才能ある選手の幸せであり時には不幸なのかもしれない。もちろんピッチの内外での選手の肉体的・精神的安全は絶対に守られなければならない。またサッカーを愛する者の節度も求められる。しかし熱狂の渦の中で、賞賛の裏側には非難や中傷が必ず付いて回るのだろう。

神の手が引き起こした波紋は、今日ではVAR等のテクノロジーの導入に何らかの影響を及ぼしているのだろうか。規範意識と監視のせめぎ合い、ルールとその実効性のあり方はまだまだ終わらないテーマなのかもしれない。

補足しておくが、彼だけが天才なのにもかかわらず規範意識が乏しいと言っているわけでは決してない。彼以外の選手が品行方正(クリーン)であったかというとそんなことはなかった。危険なタックルやラフプレイの類が、当時今日よりも大目に見られていた。彼がレガースをすねとふくらはぎ前後2カ所、合計4枚装着して試合をしていたエピソードを聞いたことがある程だ。

マラドーナはサッカーに全身全霊を捧げた世界のスパーヒーローである。