絶対領域以上犯罪領域未満の際の際⑤神の手

かの天才サッカー選手、マラドーナの‘’神の手‘’の話である。

’86年W杯メキシコ準決勝での出来事である。前半はイングランドの激しいマークに苦労して、思うようなプレイをさせてもらえなかったが、それでも彼はいくらか天才の片鱗は見せていた。後半に入って間もなくそれは起こった。彼が中央にドリブルで仕掛け、右サイドにパスを出した。味方がトラップミスをして、そのルーズボールイングランド選手は蹴り上げた。ボールはキーパーの正面へとふわりと飛んで行った。彼は勢いそのままにゴール方向へ走り込んで行った。決して背の高くない彼と、キーパーとのペナルティーエリア内の空中で競り合いとなっていた。彼の方が一瞬早くジャンプしたが、キーパーとの高さ争いでは分が悪いはずだった。しかしキーパーが触るより先に、彼が伸ばした左の手がボールを弾いた。浮き上がったボールはキーパーの頭の上を越え、ゴールへと吸い込まれていった。イングランド選手の猛抗議にもかかわらず、判定はゴールと認められた。その後彼がやってのけたのが、歴史に残る5人抜きのドリブルからのゴールだった。

俗にマリーシアと呼べるようなハンドによる得点と、他人にはまねできない華麗な超人技によるものとが、一人の選手によって実演された不思議な試合となった。結果は2-1でアルゼンチンの勝利に終わったが、スキャンダラスな神の手と空前絶後の神業が奇妙に同居していた。

当時の子供時分の私的感覚では、ハンドという反則はサッカーをサッカーたらしめる最も核心的ルールであり、それを意図的に侵す行為に強い違和感を抱いた。それもスパースターが、誰でも知っている原初的タブーを破ることに後ろめたさを感じた。

彼はその試合でパンドラの箱を開いたのかもしれない。勝利のためなら手段を選ばない。そういうサッカー選手が世界には存在しうる。選手生命どころか人生そのものを懸けてサッカーをする、そういう彼の人間性が垣間見えたかのようで、私のような凡人からするとどこか腑に落ちなかった。凡人の日常と天才の非日常の間に横たわる隔たりがあまりにも大きく感じたのだと思う。

ただ年を重ねるとともに見えてきた諸事情として、南米等一部の地域の選手たちがおかれた様々なサッカー環境を知るところとなった。彼らは文字通り命懸けでサッカーをしていたのだ。その後不幸にも、プレイが一因となって殺人事件も実際に起った。本人が望むと望まないとにかかわらず、サッカーを職業とする以上、人生の一部や日常生活を担保にしてでも立ち向かわなければならない試合(戦い)が存在しうるのだ。それが才能ある選手の幸せであり時には不幸なのかもしれない。もちろんピッチの内外での選手の肉体的・精神的安全は絶対に守られなければならない。またサッカーを愛する者の節度も求められる。しかし熱狂の渦の中で、賞賛の裏側には非難や中傷が必ず付いて回るのだろう。

神の手が引き起こした波紋は、今日ではVAR等のテクノロジーの導入に何らかの影響を及ぼしているのだろうか。規範意識と監視のせめぎ合い、ルールとその実効性のあり方はまだまだ終わらないテーマなのかもしれない。

補足しておくが、彼だけが天才なのにもかかわらず規範意識が乏しいと言っているわけでは決してない。彼以外の選手が品行方正(クリーン)であったかというとそんなことはなかった。危険なタックルやラフプレイの類が、当時今日よりも大目に見られていた。彼がレガースをすねとふくらはぎ前後2カ所、合計4枚装着して試合をしていたエピソードを聞いたことがある程だ。

マラドーナはサッカーに全身全霊を捧げた世界のスパーヒーローである。